004 スイカバーが好き <上>

『横井くんの思い出 (前編)』

 

1.

 僕が生まれた田舎町は、人口が僕の少年当時で6000人、現在は4000人強と田舎の中でもガッチガチの田舎だ。以前帰省したとき見た町の広報誌にかかれていた高齢化率は54%ほどと、もはや限界集落と呼ばれる日もそう遠くはないのではないか、というパーセンテージで、54%と言うことはだいたい全員足からヘソちょい上ぐらいまでシワシワなのだろう。

 

 そんな田舎町で、テレビでやっていた爆笑オンエアバトルなどのお笑い番組や、ラジオから流れてくる音楽に触れて育った僕は、小学5年生になりお笑いコンビが組みたくなった。(同時にバンドを組んだがそれはまた別のお話)

ピンネタといえば田上よしえ長井秀和のような、流麗で自分の世界観やワードをしっかり持った一人コント・一人喋りが必要になると考え、そのような芸当に全く自信のなかった僕は相方を探すことにした。

 現在はお笑いブームと言われて久しいが、当時ネタ番組なども数えるほどしかなく、お笑い好きは数えるほどしかいなかったので、最終的に仲の良かった数人からその人の持つエピソード・性格ともに「こいつとならコンビでやっていける!」という人を絞り込んだ。

 

 その結果、幼少時に「お風呂に入りたくないと言って50分駄々をこねていたらお父さんに腕を引っ張られて骨折した」というおもしろエピソードを持つ横井くんとコンビを組むことになった。

 このエピソードを決定打的なおもしろエピソードとして評価しているそのジャッジが、致命的に小学生小学生しているし、脳内で勝手に話を進めておいて「こいつとならコンビでやっていける!」と値踏みしているところもめちゃくちゃ小学生小学生していて少し恥ずかしい。

横井くんはいわゆる天然と呼ばれていた人で、色白のその頬にはうっすらとそばかすが点在していた。そして、かなりの温厚で怒ったところを見たことがなかった。

 コンビ結成前まで、横井くんとは週4で遊ぶぐらいの仲良しで、パソコン室で「おもしろ画像」と検索して笑ったり64のがんばれゴエモンでろでろ道中を全クリしたり、遊んでいない日もサッカー少年団が一緒だったので土日の試合中のベンチや大会の待ち時間も64や担任の菅原先生の口癖について話すなどしていた。

 

2.

 そんな横井くんとのコンビ名は、当時僕が大好きだったスーパードンキーコング64から『ドンキーズ』に決定した。

いざネタ作り、となったとき横井くんは「コントと漫才の違いが分からない」と言う。そればかりか「お笑い見たことない バカ殿しか見たことない」とのたまう。

勝手に値踏みをしておいてアレだが、当時の僕は「お風呂に入りたくないと言って50分駄々をこねていたらお父さんに腕を引っ張られて骨折した」という超ド級おもしろエピソードを持つ横井くんのお笑いの知識がここからなんて…ということに軽くショックを受けた。

同時に、”この世界”に横井くんを引っ張りこんだ自分に罪悪感すら感じた。- まるでお風呂に引っ張りこんで骨折させた横井くんのお父さんのように -

 

 横井くんにお笑いを見てもらうべく、3倍録画で6時間お笑いを録画したテープを3本渡して「今週中に見てほしい」と言った。横井くんはいつもの笑顔で、嫌な顔ひとつせず「うちにはテレビがない」と返した。

では、横井くんとサッカー少年団のパス練のときにした、うたばんの話は何だったのか?などと尋ねると「うちにはビデオがない」と答えた。

いくら田舎町とは言え、吉幾三の脳内村を地で行くような田舎っぷりではなかったはずで、現にうちにはテレビもビデオもあったし、バスは一日10本ぐらいは来ていた。

 じゃあ唯一のお笑いであるバカ殿はどうやって見たのか?、まで言ってしまいそうになったがそこまで言うことは流石に良心が咎めたし、コンビ結成前にオシャカになって友情にまで亀裂が入ることは悲しいので辞めた。

 単純に迷惑だったんだと思う。当時から過剰だった自分の悪いクセが出てしまったなあ、と今でも時々思い出して恥ずかしい&申し訳ない気持ちにたまになることがある。

 

 最終的にうちの13インチぐらいのaiwaテレビデオで何本かネタを見て、二人で笑ったエレキコミックのコントと、江戸むらさきのショートコントをあわせたようなネタをやろう、と方向性を決めた。

その日のうちにショートコントが10本ぐらい出来た。休み時間も、みんながドッジボールやキックベースに興じる中、ネタを作り続け、椅子によしかかっては「芸人はつれーなー」みたいな顔をしていた。今思うと本当に滑稽で恥ずかしい&情けない(c)ゆらゆら帝国である。

 

3.

 数日後、ショートコントが30本ほど出来上がり「明日、本番いくぞ」と横井くんに声をかけた。サッカー少年団の休憩時間にやっていた練習もバッチリで、機は熟していた。

初舞台は2時間目と3時間目の間の15分休みだった。当時サッカー少年団で仲の良かった門脇くんら友人数名を集め、5年1組の廊下の前でネタは始まった。

 ショートコントは『宅急便』、『ジャンケン』に始まり、後の代表作『回転寿司』から、あの伝説のシュールコント『意味不明』まで盛りだくさんの内容。江戸むらさき直系のスピード感のあるショートコントを二人は完璧にこなし、15分のライブは爆笑のうちに終わった。気づくと、あまりの笑い声を聞きつけた5年2組からも観客が来るなど大盛況だった。

 僕は「お風呂に入りたくないと言って50分駄々をこねていたらお父さんに腕を引っ張られて骨折したおもしろエピソードを持つ横井と組んで良かったなあ…ありがとう…」という充実感でいっぱいだった。

 

 その後もドンキーズの快進撃は続き、毎日の15分休みごとのネタ披露、お楽しみ会でのロングネタ・漫才披露、評判が巡り巡っての6年生の教室の前でのネタ披露など活動の場を広げていった。そして、全てがウケにウケまくった。横井くんも、一躍クラスの人気者となり楽しそうだった。

全てが順調に見えた。そんなある日のことだった…

 

(後半に続きます)