063 つまらない映画の理由を考えるのが好き(前編)

『影について考える』

 

1.

 それまでの人生、ほとんど映画を見ていなかったのに、ここ2年間ぐらい映画を見まくっている。本当に見まくっている人からすればあまり見まくっていないのかもしれないが、今まで年間5本ペースだった人が去年は171本見たので、自分の体感としては見まくっている。

今年も、自分なりに色々と勉強したり、曲とかを作りながら、現段階で100本ちょっとは見ている。今までのペースからすれば見まくっている部類である。

見た数で何か偉いわけではないけれど、単純にたくさん見たら見え方が変わったりするのが面白くて見続けている。

 

 この習慣を始めてから、映画を見た後は、拙くともメモ帳に感想を書くようにしている。

「たかが娯楽じゃん!映画。そんなことしなくていいじゃん」という方の気持ちも分かるが、自分は鈍いのでこうでもしないと見た映画の良さがモヤーっとしていてつかめない。なので少しでも理解できたらと思ってやっている。そしてなるべく忘れたくないので、感動したシーンとかを書き留めておきたい。同じことを多くの人がやっていると思う。

 

 今まで映画をほとんど見てこなかった、映画を見る文化が実家に居る頃から一貫してなかった人間なのでビックリしたのだが「映画の感想を人と話すと楽しい」ということも、20代後半にしてやっと初めてわかった。

逆にここまでこの娯楽を封印して生きてこれたのが不思議なくらい、そして、これからこの娯楽をたくさんする余地・余白があるということにワクワクしている。

家に住んで10年目で洗面所を発見したみたいな嬉しさである。顔洗えてすげー便利。流しで歯磨きしなくていいし。

 

2.

 映画の好みがピッタリ重なってないまでも、趣味が合いそうで楽しく話せそうな人には、自分の見た好きな映画を勧めたくなる。

これも生粋の映画好きの人には当たり前だと思うが、今しばらくお付き合い頂きたい。まだ映画赤ちゃんだから。映画年齢2歳だから。ボタン電池とか近くにあったら誤飲しちゃうから。オヤスミマン履かないと眠れないから。

 

 好きな映画の好きなシーンや解釈が話せたら楽しいし、自分が気づいていない視点のことを言われるとハッとしてそれもまた楽しい。

けれど、どうしてもつまらない映画・嫌いな映画というのは現れるし、好きな映画でもあの主張だけは全く共感できない・共感できないどころか不快になる、それ以外はすごい好きなのに…ということもある。

改めて、めちゃくちゃ普通の話だが、もう少しお付き合い頂きたい。

 

 つまらない映画でも途中で止めてしまうことはほとんどない。もう退屈で退屈で眠くて眠くて、つまらなくてイライラしても大抵最後まで見る。

本当に不快で監督のカッコつけまで透けてみえてしまう感じのものを、年に1本ぐらい途中で止めてしまうことはある。レンタルでも一応お金はかかっているし、もしかしたらこの後に面白いシーンもあるかも知れないと思うと、そんな映画でも途中で辞めるのはかなり断腸の念である。

 

 そうして無理矢理見た映画でも感想を書く修行、「感想行」(かんそうぎょう)を自分に課しているわけなので、その後感想を書く。

必然的に、内容は「何でつまらなく感じたのか」「どの人物のどういう立ち居振る舞いが嫌だったか」というところに終始してしまう。

 

 好きな映画を見た後の「良かったな~好きだな~」というフワーっとした気持ちが、どんどん自分の潜在意識からズルズルと引き出されて言語化されて、感想にしていくうちに具現化して、「こういうことだったのか!」とわかったときはかなり気持ちいい。

それには及ばないものの、つまらなかった映画の何がつまらなかったのか、を考えて形になったときも同じぐらいスッキリはする。

 

3.

 去年、映画赤ちゃんなりに、ツタヤでハイハイしてヨダレを垂らしながらDVDのケースを振り回し、店員さんに注意されながら色んな映画を借りて見ていくうちに、どうやらSF映画が好きらしいとわかり、SF映画を優先して見ていた時期があった。

 SF映画の性質上、どうしてもディストピア思想だったり「人間社会への警鐘」的なメッセージが含まれている事が多く、「いつも心は中学生」の僕はそこが好きだったのだが、どんな作風のSF映画でも、少なからずそういうメッセージ性と共にあることに対して、徐々に食傷気味になってきていた。

 

 そこで「”めちゃくちゃ普通に宇宙を旅行とかして、たのしー!”みたいなSF映画、見たいな」と考えていて、探すようになった。

 

 余談だが、自分なりに映画を見まくっていると、どんなに好きなジャンルでも、一定の周期でゲシュタルト崩壊的な状態になって、逃れるように反対の性質の映画が欲しくなるということがこの時わかった。

 一時期映画というもの自体にゲシュタルト崩壊が及び、「映画って…人ばっかり出てくるじゃん!!人が決めた話を人が演じて、人間ばっかりじゃん…何やってんだよ……人が出てこなくて人間界のルールとか一切出てこない話が見てー」という、人間自体に嫌気が差したような状態になった。

対人恐怖症とも違うし、人嫌いとも違う。非日常であるはずの映画の世界でも、結局人間社会の箱庭の中で根本は日常であることに嫌気が差し、画面内でも人間と人間社会のルールを一切排したくなった。

 

 その頃は犬ばっかり出てくる『南極物語』とか、ディズニーの『ウォーリー』とか、ウェスアンダーソンの『ファンタスティックMr.FOX』とか、人間以外が主に出てくる作品に思いを馳せるようになった。南極物語ですら、高倉健さんが大好きなのに「人間じゃん!!」となってちょっと嫌になっていたぐらいだ。急に映画を摂取し始めた副作用か、普通にノイローゼだったように思う。

最終的には、youtubeやAbemaにある動物のドキュメンタリーとかに落ち着いた。そこから脱して、人間が出てくる作品に戻ってくると、「こいつは人間の皮をかぶった悪魔だよ!!」みたいなやつも出てくるなあと思って、人間が出てくる作品にも退屈しなくなった。

「人間が出てくる作品」って言い方なんなんだよ。ツタヤで「人間が出る」「出ない」で棚分けしてみてほしい。

 

 余談が長くなったが「めちゃくちゃ普通に宇宙を旅行とかして、たのしーみたいなSF映画」を探すうちに、スターウォーズも見たけどもっとたのしーだけに終始してるやつないかなあ…と色々漁った結果、『スペースボール』というSFコメディ映画に行き着いた。

 

(続きます)