001 赤ちゃんが好き

『靴下を履いてない人』

1.

 日本国民に「靴下を履いていない人と言えば?」と質問をして、98%が思い浮かべるのは石田純一だろう。

僕の場合は違っていて、「生後間もない赤ちゃん」と答える。

 …

 赤ちゃんが好きだ。厳密に言えば、「赤ちゃんを眺めている」のが好きだ。

「育てる」という話になると、20代も後半になって後先を考えずボードゲームやおもちゃを買いすぎて財政を圧迫して「どうしよう…」となっていたり、定食屋の前にある食品サンプルの触感が気になると無意識に全て触ってしまうような現段階の自分では手に負えない。(たまに食品サンプルじゃなくて本物のことがあり、1000回に一回ぐらい手がケチャップまみれになったりする。お店の人本当にごめんなさい。)

 周りを見回す限り、だいぶ年長の赤ちゃんだからだ。赤ちゃん界の山本昌山本昌ですらチームの若返りのためと引退したのに、自分はまず前述の行動を辞めない限り最年長赤ちゃんを引退することが出来そうにない。

 これだけだと、20代後半にもなって全ての行動が制御できておらず、まだパンパースユーザーのマジモンの最年長赤ちゃんと思われそうなので注釈しておくと、ボタン電池がそこら辺にあっても誤飲はしないし、パンパースも履いていない。(ムーニーマン派)

 

 なので、同い年で父親・母親になっている人を見ると、掛け値なしに凄いなーと思うし、育てる苦労は当然ながら我々が外側から想像する以上のものであろうと思う。

 赤ちゃんの行動はとにかくワンダーで予想外だ。

すぐに何でも口に入れようとするし、少し目を話すと高いところから落ちようとしたり制御不能だ。かと思ったら大人のようにニヒルな笑顔をしたりするし、初めて喋った言葉が「サンタは居ない」だったりする。(そういう子も世界中探せばいるかも)

この間も、友人の子供に50cmぐらいのシリコン製のミッフィーちゃんのライトを贈ったのだが、1時間半ぐらいで耳がヨダレでガビガビになっていたし、その子の頬も自らのヨダレでちょっとかぶれていた。ミルクをおいしいおいしいと30分ぐらい飲み続けて挙げ句ゲロを吐いていた。ミルクを酒に置き換えれば自分でもあり得る話だが…

 

2.

 僕の好きな黒澤明の映画『醜聞<スキャンダル>』に、こんなセリフがある。

三船敏郎演じる主人公・青江が、彼についての無神経なスキャンダル記事を掲載した編集社の編集長を殴ってしまい、そのニュースを見たある無名の弁護士・蛭田が現れて、青江の行動についてこのように声を掛ける。

「いや、たしかにあれは無分別だったかもしれん。しかし時々無分別になるのは人間の自然だと思っています。永遠に分別くさい人物は安っぽくていかん」

 

 自分を含めた大人の中には、勝手に作り上げた「大人のイデア像」みたいなものに、自らを当てはめようとする人がおり、半ば強迫観念的にそこに自分を当てはめながら大人にならなくちゃと考えている人も多いように思う。

小さい頃は、年齢が進めば勝手に大人になれて、20代前半になったらオープンカーに乗って100億万円の貯金があり、黄色いスカーフとスプレーで固めた前髪を風になびかせていると思っていた。(これが大人像の時点でぶっちぎりに子供)

 実情はご覧の有様。僕は大人界の中でもとりわけ大人じゃないかもしれないが、僕よりずっと大人に見える人にも、子供っぽい行動でバランスをとっている部分はどこかにあり、24時間「大人のイデア像」みたいな大人なんていないといつからか気づいた。

 むしろ、「大人のイデア像」をいついかなるときも遵守することに血眼になっており、「”大人のイデア像”に照らし合わせて分別のある行動」ばかりをとっている人は、自分のバランスや幸せを自分なりに見つけられていないという意味でもしかすると大人じゃないのでは?と思ってしまう。

体育の時間で、跳び箱やマットをみんなで運んでいる人たちは、一人一人ほとんど力を入れていない。隣でバスケットボールのセンターサークルを使って相撲をしているやつらのほうが、自分たちで体を動かすことを考えているしずっと体育しているんじゃないか?ちょっと強引か。

 

 前述の『醜聞<スキャンダル>』での蛭田弁護士のセリフは、そういった意味で、一般的に「分別がある」とされている行動ばかり取る人間は信用ならないということだと思う。

青江の行動の是非は映画のストーリーに預けるとして、時々無分別な行動を取ってバランスを取っていく、というのが実は「大人」であって、あるいは「大人」というバランス感覚だと言いかえられるかもしれない。

そして、そのバランスを取るための無分別な行動は、なるべく他人の不幸の上に成り立っていないことが望ましいと僕は思っている。

 

 赤ちゃんを眺めているのが好きなのは、無分別、言い換えればワンダーで型破りな行動を次々としてくれるからかもしれない。

しかも、赤ちゃんの行動はその可愛さから、どんな無分別な行動も大抵は許されてしまう。赤ちゃんのお世話をすることは両親にとって概ね幸福であり、無分別な行動が他人の不幸の上に成り立っていないことを含めて素敵だ。

それゆえ、当然ながらそのまま大人が無分別な行動の手本にするわけにはいかないが、潜在意識下に「無分別な行動」の存在を思い出させてくれる。

そしてなにより単純にかわいい!!!!!!!!!!!How Cute!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

3.

 やっとここで靴下の話が出てくるのだが、僕は赤ちゃんを眺めるのが好きすぎて、街中で赤ちゃんを見るとほぼ無条件にうれしい気持ちになる。無条件幸福である。

すれ違った赤ちゃんの表情の様子や面白い行動を友達に話して笑ったりしている。

そういった赤ちゃんウォッチングを繰り返すうちに、最近あることに気づいた。

 

 - あまりに小さい赤ちゃんは、外に出る時に靴下を履いていない -

 

近しい親戚の子供もおらず、身近に赤ちゃんがいない僕にとって、これはちょっとした驚きだった。

自分で歩けないんだから当たり前じゃないか、とおっしゃる貴兄もおられるかも知れないが、我々大人は靴を履かないで・まして靴下を履かないで外に出ることなんてほとんどない。

まして彼らは家から数十キロ離れたところまで、靴下を履かないまま遠出できているではないか。靴下を履かなくても両親が自分を遠方まで運んでくれる契約が、公然と結ばれているのだ。

我々大人には出来ない芸当である。赤ちゃんや大人、という区別を抜きにして、同じ人間として凄いことである。

 

 それに気づいてからというもの、街で赤ちゃんを見かけると「靴下を履いているかな?」という点をチェックするようになった。

靴下を履いていなければ、その場所に応じて「こんな場所まで…靴下を履かずにおいでになって…凄まじいですね」と考えるし、靴を履いていれば「靴ユーザーの世界へよぉこそ!」と心の中で先輩風を吹かせるなどしている。

 

 靴下を履いているかどうかウォッチングを続けているうちに、だいたいこのぐらいの月齢の子は靴下を履いている・履いていない、という傾向がわかるようになってきた。(だんだん書いててやばいのではと思ってきた)

なので、大体の赤ちゃんの雰囲気を見て、この子は靴下を履いている・履いていないと予想して、答え合わせで足元を見るというウォッチングスタイルになってきた。

更に大きくなると、「靴」を履いている・履いていないの分水嶺があり、次第に「靴下も靴も履いていない」、「靴下を履いているが靴は履いていない」、「靴下も靴も履いている」の3つを見分けられるようになった。

正答率は95%ぐらいで、赤ちゃんウォッチング大学 見分け学部 靴下・靴 履いている・履いていない見分け学科志望だったらA判定だろう、というぐらいまでの熟練度になった。

 

 その高い正答率に得意げになりながら、もはや無意識的に見分け作業を街歩き中行っていたある日のこと。

生後5ヶ月ぐらいの赤ちゃんがお母さんに抱えられながら前からやってきた。「はいはい、これは靴下履いている・靴は履いてないパターンの子だぞ~」と頭の中で考えて足元を見た、絶対に正解だと思った。

 

 結果、彼はスニーカー柄の靴下を履いていた。

「敵ながらあっぱれ」という言葉が頭をよぎった。敵じゃないしわけがわからない。結果正解ではあったわけだが頭がバグった。なんかどっと脳に負担がかかった。その日から何となくこのウォッチング作業は控えめになっている。

 

 今日は靴を履いていない赤ちゃんも、来週には靴を履いているかもしれない。靴ユーザーになって、徐々に大人になっても心配はいらない、今後もある程度の無分別な行動は許されているよと声をかけたい。その靴で遠慮なく世界中の大地を踏みしめてほしい。って言ってる僕は海外旅行すら行ったことないけど。

 全赤ちゃん、限りなく、すこやかであれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!こんなまとめかよ!!!!!!!!!