■ まえがき このブログについて ■

「ずっしり面白いエッセイ」を目指して書いています。

トイレや電車の移動時間のお供に最適かと思います。

 

●書いている人について

名前:やなせ京ノ介

高円寺在住・28歳・北海道出身

主に好きなもの:映画、音楽、お笑い、ハロプロ、仏教、ラジオ、散歩、展覧会、街中の電光掲示板、CMソング、ボードゲーム

 

その他くくれない好きについてもブログに書きます。見て思ったことを言ってくれると嬉しいです。

同じ好きなものがあったら話しかけてくれると楽しいです。どうぞよろしくおねがいします

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●note版もございます。

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●その他活動

★CMソングを歌うユニット『キシリ徹』

 

このプレイリストを聞いてみてください。↓

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ファニーです。

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キシリ徹 (@fakecmsongs) | Twitter

102 田島貴男が好き

(↓の続きです)

yanakyo.hatenablog.com

 

ライブ『Love Jam Vol.4』の感動で「田島貴男が好き」が溢れてしまったので書いた記事(後編)

 

3.田島貴男が好き。「接吻の人」と思ってちゃ勿体無いからマジで聞きなって!!!!!

 僕は田島貴男が大好きで、オリジナルラブのアルバムは本当にitunesがすり減るほど聞いた。

 

 「田島貴男」とあえて敬称略なのは、あまりにも自分の中でスター・アイドル・心の師的な存在過ぎて、もはや田島貴男さんとは呼べないからだ。

 長嶋茂雄本田圭佑は国民的スターすぎて、さん付けよりフルネームで呼ばれることが多いだろう。マイケル・ジャクソンを、”ジャクソンさん”とは言わないだろう。

そのぐらい、(俺国の中で)国民的大スターなのだ。

 

 特に好きな所は「アルバムごとの音楽性の変化の面白さ」と、「変化しながらも「ポップス」「歌」にこだわって、そこに着地する美学」だ。

(念の為最初に、現在28歳で、オリジナルラブのリリースをリアルタイムで追い始めたのは、2011年の『白熱』からであることを記しておく。)

 

 初期の”渋谷系”と称されることもあった、ジャズやソウルに影響を受けた作品群。(それでも1stアルバムからXTC的な奇妙さ・万華鏡感は元々あった)

 そこから脱するように、Desireあたりから徐々に実験的になっていき、イレブングラフィティ・Lと、実験性を拡大させていき、ビッグクランチで完成する超実験期。

 その後も、ブルースからの影響、全編宅録、80’sを派手にリバイバル…などを経て現在に至る。このディスコグラフィの鮮やかさと、遍歴を味わう度に痺れてしまう。

 

 その中でも一番好きで、”田島貴男的美学”が顕著に現れていると思うのが、2000年の『ビッグクランチ』である。

これはDesireあたりから始まったオリジナルラブの実験性」の極北になったアルバムで、

1曲目冒頭のヒッチコック的不協和音のストリングスのフレーズから、サビのメロディにホールトーン(全音音階)を大胆にあしらった『地球独楽』、変拍子ポリリズムドラムンベースな全編実験性に満ちている。

 

 そして何よりすごいのは、これらの実験的要素を「Aメロ・Bメロ・サビ」という「歌モノ」「ポップス」に着地させ、その枠の中で成立させているということだ。

ここに、田島貴男の「美学」「ポップスに対してのこだわり」がある。

 

 やりたい放題にアバンギャルド・ローファイ・アングラにするなら、結構誰でも出来ると思う。

それを、あえて歌モノに対するこだわり・美学から来る、ある種の制約・自縛の中で実現していることが、より深く高邁な芸術性を感じる!!!!深みがありながらも、(広義の)ポップスとして聞ける。そこが大好きだ!!!!!!!!

 

 このビッグクランチに対する感覚は、自分の中の「カッコいい」「面白い」「素敵」「粋」とかの一つの価値尺度基準になっている。

そして、僕が抱いていた感覚は、田島貴男の著書『ポップスの作り方』の中の「ジョンよりポールのほうが(ポップに拘った点で)実は音楽的に高度なことをやっている」という一節によって、援用される形になった。やっぱりそういう美学の元にやっていたんだ…と感動した。

 

 高校生の時に、ベタに『The Very Best Of Original Love』から聞き、いわゆる「オシャレな音楽」としてオリジナルラブを聞いていた10代。

アルバムを順に辿り、21歳のときに、ビッグクランチにブチ当たった時の衝撃は今でも覚えている。とにかく刺激的な音楽を求めていたし、ポップなものが好きだった僕にはド真ん中の新感覚で、心を撃ち抜かれた!!!!!

 

 同世代にも、上の世代にも、オリジナルラブ?接吻の人でしょ?」という人が多いが、それじゃ本当に勿体無いって!!!!!笑

音楽好きこそ、いわゆる「オシャレなオリジナルラブ」を聞いてから、Desire~ビッグクランチの実験期を聞いてほしい。感動と衝撃がそこには待っている!!!!

Spotify

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 そして、2015年にリリースされた『ラヴァーマン』は、紆余曲折を経てポップに帰ってきた”ポップの巨人”という風格があってこれまた大好きだ。

実験期を経ないと出なかったであろう深みもそこかしこにあって、ポップスの荒野(あえて自分で獣道を選んでるのも含め)を歩いてきた田島貴男の孤高の姿が目に浮かぶ。

 

 ニューアルバムの曲は更に、その”紆余曲折を経たポップの巨人”感が培養されて、新境地・前人未到の領域に行っているような気がする…今から楽しみだ。

 

4.2018年6月、”Wake Up Challenge Tour”の感動

 2018年6月、札幌でオリジナルラブの『Wake Up Challenge Tour』、バンドセットのライブを見た。

 

 フェスなどで、弾き語りスタイルの田島貴男は何度か見ていたが、バンドセットでライブを見たのは2015年の『Love Jam Vol.1』以来だった。(この時のceroとペトロールズもめちゃくちゃよかったな~)

 

 このライブは、「去年見た・聞いたもので感動したものBest10」に入るぐらい感動した。

 

 オープニングこそ、初期からの名曲「It’s Wonderful World」だったが、それ以降は

  • 近年3枚のアルバム『白熱』『エレクトリックセクシー』『ラヴァーマン』中心の選曲。
  • この3枚のアルバムをサブスクリプション配信するために、動きまくったことのお知らせ
  • オリジナルラブは最近の曲が一番良いんです!!」言い放つ

 といった”現役感”がめちゃくちゃカッコよかった。

 

 更に、このライブでも、まだ曲名も決まっていない曲(!)含めて、新曲を3曲もやったりしていた。

 そして、繰り返しになるが、その全てがめちゃくちゃ良い曲。10代の人が作ったような野心と冒険性に満ちていて、肉体感もあり、かつ頭脳でもめちゃくちゃ考えて作ったんだろうなというバランスが素晴らしい…という印象だった。

 

 加えて、田島貴男氏は数年前からジャズギターの教室に通っており、以前では考えられないぐらいギターソロパートがめちゃくちゃ多かった。

2015年にLove Jam Vol.1を見たときは、たしか、教室に通い始めたばかりで、(本当に失礼ながら)危うい場面がいくつかあるように聞こえた。

それから3年経ち、コツコツやった成果によってギターソロはウットリするほどめちゃくちゃ上手になっていた!!(プロにこれも失礼かもしれないですが、あえて言わせてください!!)

 

 年齢をネックとして「~歳から~やっても無理だよ」とか、「~歳だからもう~出来ないわ」という常套句を言う人がいる。

けれど、田島貴男は50歳から始めたジャズギターを、54歳にしてここまで上達させている!

 

 「何かを始めるのに遅すぎることはない」と、これも常套句的に言われるが、田島貴男の、何歳でも色んなことに興味を持って・感動して、何事にもチャレンジする姿勢。そして、その結実としての近年のジャズギターのウデマエを見ると、こちらの常套句の方を信じたいと思った。

 

 その他、踊って歌って汗かいて、ゼーハーしながら誰よりも楽しむ姿勢。そこまでしなくても…と思うレベル。笑いが起こったりする。大人気なさすぎて最高だった!!!

 

 2曲目に、『エレクトリックセクシー』に入っている「線と線」という曲が演奏された。

 この曲は、人と人の距離感を「線」に例え、そんな線を越えて、ぎこちなくてもおしゃべりしよう・楽しもうとメッセージする曲なのだが、

それを歌う田島貴男こそが、「シャイにならずに一緒に楽しもう!!」とばかりにバンバンと客を煽る姿…「線を越える」ことをライブで体現している様に本当に感動した!!!!

 

 そんな、

 ・肉体感とメッセージにあふれる「パフォーマンス」

 ・新曲や近年の曲に対する展開を積極的に行う「現役感」

 ・最初は上手く出来なくても、時間をかけて練習したジャズギターを披露する「挑戦者としての佇まい」

 にとにかく感動して打ちのめされた。(それだけではなくお馴染みの名曲が聴けたのも良かった)

 

 まさに、『Wake Up Challenge Tour』だなあ…と大満足だったし、昨日のLove Jamでの新曲『ゼロセット』の「最後まで攻めよう」という歌詞に説得力がありまくり。田島貴男、やっぱカッコいいなー!!」とシビレたのだった。

 

 そして、『Wake Up Challenge Tour』で受けた感動から、僕も小さな挑戦として、毎週オリジナルのCM曲を公開したり、ラジオを始めたり、ブログでエッセイを100日連続更新したりしている。

 田島貴男の姿勢にあこがれて、小さいながら僕の行動も変わった。本当に僕にとってスターです!!!!!!

Original Loveみたいなことは出来ないけど、自分なりに出来ることがあるのではないか、最初は上手く行かなくてもいつか田島貴男のジャズギターのように、上手く出来ることがあるのではないか、と思って日々楽しみながらやっています。

www.youtube.com

 

 田島貴男、本当にありがとう!!!!!!!!!(あまりに敬称略しすぎて怒られそう)

もとい、田島さん!!!!もとい、田島さん!!!!!!!!!

101 Original Loveが超好き

ライブ『Love Jam Vol.4』の感動で「田島貴男が好き」が溢れてしまったので書いた記事(前編)

 

1.『Love Jam Vol.4』の感想

 昨日、Original Love主催のイベント『Love Jam Vol.4』に行ってきた。

 今回の共演は、PUNPEEサニーデイ・サービス。どちらも大好きで、オリジナルラブはもちろん、3組とも絶対に見たい組み合わせだったので、見逃す手はねえ!とすぐにチケットを予約した。

 

 結果として、本当にめちゃくちゃ良かったし、予想を大きく越えた(あるいは外れた)感動があった。

 

 去年出たアルバムが名盤だったPUNPEE。ライブでも素敵だった~~

 音はDOPEで、やってる本人たちはレイドバックしてて、リリックや構成に映画やアメコミとかポップカルチャー愛が全身にあふれていて、「ポップの怪獣」感があった!!!

 

 家を出る前に、アルバムのオーディオコメンタリー版も聞いてきて良かった…映画好き感が溢れてて、編集も凝ってて面白かった。

普通に爆笑しながら聞けたし、自分なりの視点とか、曲出来た経緯とか割とハッキリ言ってくれるところがカッコいいと思ったし、そのおかげでライブで聞いたときの、曲の見え方が2次元から5次元ぐらいになって、VJはなくともカラフルに映像的に見えたステージだった!!!

 

 そしてまさかのPSG揃い踏み。PSGまで見れんのかよ!!!

 しかもPSGの『愛してます』で、オリジナルラブの『I Wish』をサンプリングしたという縁で、サンプリング元である田島貴男とのコラボまでアリ…ラブに溢れた最高の時間だった。白の照明がきらびやかでカッコよかったな~

 

 サニーデイサービス、一曲目に、大好きな『スロウライダー』が聞けて嬉しかった。

 10代の頃、北海道の日の当たらない男子寮、万年床の布団の中でこの曲を聞きながら、「これがトウキョウか…これが洒脱か…」とワナワナ震えていた自分。

 20代後半になって、ライブで、東京で、お台場で、これを聞けたことに、何か隔世の感を覚えずには居られなかった…(なんなんだこの話)

 

 会場爆上がりだったPUNPEEの後に、ミドルテンポの曲が連続で続いて、リラックスしてどっしりと演奏されているスタイルが最高だった。

 

 このライブの予習でアルバムを聞くまでは、再結成以前のサニーデイ・サービスしかほぼ知らなかった。

 はじめてちゃんと聞いた近年のサニーデイサービス、特に配信限定の『DANCE TO THE POPCORN CITY』というライブ盤にめちゃくちゃ驚いた!!!!

不思議で変でダンサンブルで、かつ初期からの流麗さも健在…ミキサー卓でライン録音したものをあまりミックスせずそのまま収録しているらしい。

ローファイさとポップさのバランスがあまりにも素晴らしく、何度も聞いた。

 

 そんな再結成以降のライブのモードが詰め込まれた曲『セツナ』が、昨日はセットリストのド真ん中に急に放り込まれていた。

おそらく10分ぐらいに渡る終盤のインプロビゼーション部分、轟音・ノイズがあまりにも気持ちいい!!!音の壁!!!!!!!曽我部さんと田中さんの、正メンバー二人が大人げないまでに頭ブンブン振っていて、本当に大人気なくて最高!!!!!!だった。

 

 最後は、何事もなかったかのように(?)『白い恋人』が演奏されて終わり。

ほか二組とはあまりにも異なる雰囲気、こういうイベントの醍醐味だと思いました。

 

 近年の曽我部さんは、サブスクリプションにめちゃくちゃ積極的で、ニューアルバム配信から2週間でまたニューアルバム配信したりしてて、そういうフレキシブルで「作るの楽しー!!」的なやんちゃスタイルがめちゃくちゃカッコいいと思います。

 

2.攻めまくってたオリジナルラブ

 そしてオリジナルラブ

普通対バンイベントやフェスだと、他のバンド目当てのお客さん用に有名な曲やりまくりだったりするのに、昨日は

 

  • 『L』『ムーンストーン』という比較的実験性の高いアルバムからの2曲
  • 新曲4曲

をブチ込むというハイパーチャレンジング精神満載の選曲!!!そして全曲めちゃくちゃ良い!!!!!

 

 PUNPEEがfeat.した『グッディガール』が昨日初披露だったのだが、曲調やリズム・そして真城めぐみさんのコーラスが、まるでクラシックソウルの名曲のようだった。

そんな、クラシック感覚のある曲の上に、現代のポップカルチャー的感覚を含んだPUNPEEのラップが乗る。

この”時を越えて、現代でしか誕生し得ない”バランスがとても良かった。

 

 A Tribe Called Questドキュメンタリー映画で、「トライブがジャズのレコードからサンプリングしまくって、HIPHOPのトラックとジャズの親和性を証明した」という一節があり、

そのシーンで誰かが「今までジャズなんてのは、親父のレコード棚にある古臭い音楽だったんだ。それをトライブがHIPHOPに持ち込んだおかげで一転してクールな音楽になったんだ」みたいなことを言っていたのを思い出した。(うろ覚えまくりでスマン)

一聴しただけだけど、『グッディガール』は、そういう”時越え”感が生む、現代的な感動があった。めちゃくちゃ良かった。

 

 その他、ラジオで先行でかかった『ゼロセット』。イレブングラフィティ~Lあたりの実験性を思い出させる『AIジョーのブルース』、ジャズのスタンダードの主題部のようなイントロの人生賛歌『Bless You!!』まで全曲良くて、春夏のツアーでの印象含めて、次のアルバムが名盤と確約されている!!!!!と改めて思った。

 

歌いまくる・ギターソロ弾きまくる・いつもよりは控えめだけど踊りまくる、独特の口調で喋り笑う!!!やっぱ田島貴男見てると元気出るわ!!!!!

終わった後のビール(スーパードライ嫌いだけどああいう時は本当にウマイ)とサイゼ飲みまで、最高のイベントだった!!!!!!

また来年も見たい。

 

(後編、『田島貴男が好き』に続きます)

★特別記事:「100日連続更新」をやってみて

▼「100日連続更新」をやってみて

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 101日から、18日まで100日連続でエッセイを更新する」という試みをやってみました。

 

 最終日、下書きをそのまま投稿してしまうというミスもありながら、無事100記事達成することができました。

コメントを頂いたり、スキを頂いたり、読んでるよ~と言ってくれたり、読んでるよ~と言わず読んでくれた方々ありがとうございました。

 

 長年ブログを続けている方にとっては、100記事なんてまだまだ、かもしれませんが、

 個人的に、ブログやnoteはもとより、おそらく途切れず100日連続で何かするというのは食事と睡眠以外でしたことのないことでしたので、今回100日連続更新をして思ったこと等をまとめてみたいと思います。

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●方針として決めていたこと

  • 「好きなこと」縛りで100記事毎日
  • 「ブログ」というより「エッセイ」的な気持ちで書く
  • 1記事 1500~4000字
  • なるべく体験談、あるいは自分のフィルターを通して考えたことを書く

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●100日間で思ったこと

 

1.毎日書くのはベタにめちゃくちゃ大変

 

2.一日2記事書いてストックしておくとかを、5日間続けると、4日目ぐらいで自分が書いてることが面白いのか面白くないのか、人から見て楽しいのか楽しくないのかわからなくなる。

映画見たり、全部後回しにして出かけたり、朝から酒飲んだりしたくなったりと、わかりやすく逃避欲求が発生する。

↓↓

ある程度ストックが出来た休日、一回だけ朝10時から本麒麟の500mlを2本飲んだ。

爆笑問題の昔の競馬番組を見ながら。チキンを食って。

↓↓↓

最初の開放感半端ない+1時間後ぐらいの倦怠感半端ない。

→その後15時ぐらいに昼寝したけど「この休日、全然良くね~~~~!!!」と叫んで二度とやらないことを誓ったのだった。

「この休日、全然良くね~~~~!!!」が石になって遠くの山に刺さってた。(c)はじめ人間ギャートルズ

 

不健康な事するより、歩きまくったり遠くまで行って映画見たほうが気持ち良いと思いました。身体が喜んでた

 

3.ストックを作っても、毎日更新だと、桃鉄のウイルスカードか!ってぐらいどんどん手持ちがなくなってく。

・しかも「これはイマイチだからもうちょっと寝かしておこう…」とか「順番的にこっちを先に出そう…」とやってる内に、出せなくなってボツになった記事とかも出てくるので、その分は追加で書く

・結局ストックゼロで当日に書き出した記事もいくつもあり。

 

4.順番や細部を工夫するのも大事だが、良くも悪くもみんなそんなに細かく見ていないので、気にしすぎなくていい

・だから、細部にこだわりすぎて出すのを躊躇したり、そもそも書くことを躊躇しても意味がない

→大枠を大まかに書いておいて、あとは寝かして出す時に直せば良い。

・たぶんブログだけじゃなくて、何か世の中に出すときの鉄則のように思う。

・出さなければ0だが、ダメでも出せば20点ぐらいにはなるかも。20が1個あっても、やり続けていつか100があればカバーできるし、0よりマシ

 

5.書きたいことをメモして寝かしておいて、散歩すればだいたい2テーマぐらいは浮かぶ

・体を動かすことが大切で、机上で延々考えててもマジで浮かばないときは全く浮かばない

・クラシックの作曲家や画家も散歩がルーティーンな人が多かったらしい。気持ちが心底わかった。

 

6.サイゼリヤで、「やわらかチキンのチーズ焼き+白ワイン(ベルデッキオ)」を摂取した次の日はテンションが高く、次々書ける。

・これはマジです。肉に含まれるトリプトファンのおかげか、1000円ちょっとで必ず幸せになれて脳がポワーっとして、次の日もそれが持続する。

しかも、エッセイも書けるという魔法の組み合わせで、下半期のヘビーローテーションに。マジで週一回必ず行って、必ずこの組み合わせを頼んでいた。

俺にとっての合法ドラッグ

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7.100記事書くと単純に気分がいい。

・記事の前につけたナンバリングが加算されていくのがテンション上がる

・ズラッと並んだタイトルを見て「やったな~」と思える

___

 

●最後に…「好きなこと」について書くことのススメ

 

 今回、「好きなこと」縛りで100記事を書いてきました。

 

 どうしても結びつけにくい回もあって、タイトルの末尾を「~が好き」で統一するのに頭を悩ませることも。

苦肉の策で、「(途中に出てくる食べ物)が好き」系のタイトルが多いです。

これは、池袋ウエストゲートパークの各回サブタイトルが、本編でちらっとそれが出てくるだけなのに「イチゴの回」「しいたけの回」となっているのに影響を受けているかもしれません。(IWGPの場合はナンバリングにもかかっています)

 

 何故「好きなこと縛り」にしたかと言うと、ここ数年で「世の中は好きで動いている」と改めて思ったからです。

その表現が直接的だとしても、回り回ってだとしても、行き着く先はみんな好きのために生きているのではないか、と感じます。

嫌いのために生きていたり、嫌いや悪口を原動力にしている人もおりますが、その前提には「好きのために嫌いをくじく」みたいな理念が働いていたりするのではないでしょうか。

いずれにしても、嫌いや悪口はスパイスのようなもので、メインディッシュは好きや好意だと思います。

 

 極めつけは3月に川崎で行われていた『みうらじゅんフェス』を見たことで、みうらじゅん氏の、好きなことは人100倍偏愛し、興味のないことやむしろ嫌っていたものまでも好きになってしまう強大な「好き力」を、

氏の大量のコレクションや作品として目の当たりにし、「世の中=好きの世界だ!!」という考え方が決定的になりました。

 

 今回の「100記事好きなこと縛り」は、みうらじゅん氏の「好きを・大量に」の姿勢にならって始めたものです。

いざはじめてみると、毎日更新のため、ハイペースで自分の好きに気づく必要が出てきました。

そうすると「これも好きだった」「俺こんなことまで好きだったんだ」と、思いもよらぬ埋蔵されていた好きが脳内から発掘され、「世の中も好きで出来ているし、自分も例外ではなく好きで構成されているよな」と、自らの「好き力」の意外な高さを再確認できました。

 

 そして、好きに対して記事を書くことで、「好き」を多角的に掘り下げる必要が出てくるので、書きながら「こういう理由で好きなんだ!」と自分でもわからなかった理由に気づくことが出来ました。

そうすると、自然と好きの濃度まで上がり、また”総合的な好き力”がアップするので、街歩いてても見え方が変わったような…

 

 更に今回、子供時代~20代前半までの思い出話についてもいくつか書きました。

これらはほとんどが、飲みの席などで友達には喋ったことはありましたが、トークは水物なので、毎回ディティールが違ったりしていました。

それを、成文化することによって、その思い出話の「正史」が出来るのが良かったし、自分の子供時代もしかすると凄く楽しかったのではないか?と、遠い昔のことながらバイアスがかかって少しうれしくなれます。

 

 そんなわけで、

 ・自分の「好き」の再発見

 ・「好き力の濃度」を上げる

 ・思い出の「正史」を作れる

あたりが主に良かったことです。

加えて、たまたま見てくれた方がちょっとでも楽しく思って頂けたらそれも嬉しいことです。
 

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 この記事で101日目になりました。

 明日からは、一旦毎日更新を辞め、3日~1週間1記事で更新できればと思っています。よろしければ、また見てくれるとありがたいです。

 

 長文・乱文をお読み頂きありがとうございました!

_______

●目録:ここまでの好きなもの一覧

…せっかく「~が好き」のタイトルで統一したので、ここまで書いた「~が好き」のタイトルだけを並べて、ふろくにしたいと思います。

 

赤ちゃんが好き
ホンコンやきそばが好き
黒澤明(のポスター)が好き
イカバーが好き
忍者Tが好き
親が持ち帰ってくるお菓子が好き(だった)
パーティーグッズが好き
外国人から見た勘違いした日本像が好き
知らない人と話すのが好き
「時々しか買わないものには金を惜しまない」のが好き
職人気質が好き
いっぽんでもニンジンが好き
「面倒なこと全部ネプリーグだと思ってやる」のが好き
知らない駅で降りるのが好き
柿の種が好き
爆笑問題が好き
視力検査が好き
リキュールが好き(と、のたまっていた)
工夫して遊ぶのが好き
◯◯パーティーが好き
駅前通りの肉まんは好き
エロに翻弄されて惨めになった話を聞くのが好き

イグノーベル賞が好き
人の趣味の選択・思いつきの話を聞くのが好き
『やったことないこと50音』が好き
席替えが好き
ソフトさきイカ(チーズ味)が好き
コアラのマーチが好き
長距離バスから見る景色が好き
「言葉・行動=うんこ」として軽やかに過ごすのが好き
マグマバッカスが好き(だった)
昔のメモ帳を漁るのが好き
Berryz工房の『なんちゅう恋をやってるぅ YOU KNOW?』の歌詞が好き
習い事が好き
朝ごはんが好き
あだ名が好き
比較対象を疑うのが好き

無駄記憶が好き
つまらない映画の理由を考えるのが好き
調味料を買うのが好き(だが、使い切れない!)
終わったテレビ番組について考えるのが好き
向上心のない飲食店が好き
聞き上手な人が好き(で憧れる)
「上手くボーッとする」のが好き
夢の話が好き
冷やご飯が好き
動物の赤ちゃんが好き
絵が下手、だけど書くのは好き
滑舌が悪い、だけど喋るのは好き
ワードバスケットが好き
トッピングが好き
都市伝説が好き
『年末映画』が好き
Queenが好き
集団ヒステリーが好き
三百円が好き(だった)
パチモンのネーミングセンスが好き

遊戯王カードが好き(だった)
「安易な"変態"という言葉を凌駕する想像力」が好き
メタモンが好き
アンパンマンが好き

100 アンパンマンが好き

アンパンマンが教えてくれたこと』

 

1.

 皆ご存知かどうかわからないが、2019年は江戸時代ではないので、侍ではない我々も名字を名乗ることが許されている。

 

 名字が皆にあるということは、他人から見たその名字の響き・字面などに対してのイメージがある。

響き・字面以外にも、同姓の有名人から連想するイメージを当てはめられることもあると思う。

 

 武井ならスポーツできそう、立川なら毒舌そう、坂東なら金にがめつそう…みたいな。

一度「清原」という名字のAV女優を見て、そのネーミングセンスにキレそうになったことがある。(しかもギャルかよ!という)

 

 安藤なら安藤美姫、橋本なら橋本環奈、のように、名字に対して「その名字の代表」とされている人に当てはめてイメージを付けられがちだと思う。

 

 僕の場合は、やなせ姓なので、ずっと「やなせたかし」のイメージを付けられていて、初対面の人に名字を名乗るだけでアンパンマンいじりをほぼ毎回されてきた。

一度、飲み会で会った30代の公務員の人に、2時間でアンパンマンいじりを25回ぐらいされた時は流石に胸焼けしたし、終盤は「ええ、はい」ぐらいのリアクションしか本当に取れなかった。ああいう、ずっと一つの切り口でしか話してこない人って感情ぶっ壊れているのだろうか…

 

2.

 そんなわけで、人生でその名前を口にする・されることが多いこともあって、やなせたかし先生は他人とは思えない。

 更に、おじいちゃんが両方共に早くに亡くなってあまり接点もなかったので、勝手に、遠い親戚のおじいちゃんのような親近感を抱いていた。

 

 ずっとそう思い続けていたわけではなくて、8歳ぐらいになると「アンパンマンなんて子供の見るもんだよ」とココアシガレットを口にしながらマセたいガキの季節が訪れてから、20何歳までは何となくアンパンマンやなせたかし先生とは疎遠だった。

大人になるにつれ、死を持ってなお語られる先生の功績や、偉大な仕事の数々を目にする度に、「いつかしっかりとやなせたかしの作品に触れたい」と思っていた。

 

 そして去年、氏の自叙伝『アンパンマンの遺書』を読んだ。

 文体の軽妙なテンポとほどほどに差し込まれる自虐・青年期から中々自分のやりたい”漫画”で芽が出なかった時代の苦悩・アンパンマン成立までの経緯や、そこに込めた哲学・奥さんとの死別、友達以上恋人以上夫婦以上の信頼関係などが非常に濃密にかかれていて、期待を上回る感動に打ちのめされた。

 いい映画を2本ぐらい見たような読後感だった。去年見た聞いた、映画・ライブ・音楽・お笑い・落語・本など全ての中でもマイベスト10に入るぐらい素晴らしい作品だった。

 

 何にでも影響を受けやすく更に中々冷めにくい僕は、やなせたかし先生を、心のおじいちゃんから、勝手に心の師と決めて、エッセイを書くときや作曲のときのペンネームの「柳瀬」を、師匠にあやかってひらがなにしたのだった。

 

3.

 - アンパンマンが嫌いな子供は、ジョニーデップが嫌いな女ぐらい居ない -

 

 これはカントの思想の根幹を体現する名言であるが、僕も全くそう思う。

アンパンマンを嫌いな子供を見たことがない。日本全国押しなべてアンパンマンフリークの子供たちで埋め尽くされている。日本列島は、アンパンマン好き子供列島である。

 

 かく言う自分も、自らの名字がやなせであることを認識する以前からアンパンマンが好きな子供だったし、母親の話では、初めて喋った言葉も6ヶ月のときの「アンパン」「バイキン」だったという。(2つ目に喋った言葉は「年金制度はいずれ崩壊する」)

 

 20代で自らに訪れたアンパンマン再評価の季節から「何故子供はアンパンマンが好きなのか?」と、ずっと考えていた。

加えて、「アンパンマンの遺書」を読んでの感動をもっと近くで感じたいという気持ちが日に日にましていたので、映画やドラマの聖地巡りのつもりで、横浜にあるアンパンマンミュージアムに足を運んだ。

 

 平日の昼間だったが、場内は親子連れで溢れかえっており、子どもたち、そしてお父さん・お母さんたちまでグッズを見たりしてキャッキャと楽しんでいた。

 

 くり抜かれた床に作られた、ガラス張りのアンパンマンジオラマを、しゃがんで食い入るようにずっと眺めている子もいた。

まるでトランペットが飾ってあるショーケースを物欲しげに眺める黒人の少年のようだった。俺が黒人の大富豪だったら、彼にこのアンパンマンジオラマを買ってあげるのに。でも他の子たちが見られなくなるからダメか…我慢してくれ、少年。そして俺も大富豪でもないし、めちゃくちゃに黄色人種だった。

 少年は、「ほら、早く行くよ!」とお母さんに言われ、数分の耐久の挙げ句、腕を引きずられズルズルと何処かへ帰った。

 

4.

 そして僕も、改めてグッズや原作の絵本を見直して、魅了された一人だった。

 

 アンパンマンのフォルムの可愛さ・色々なキャラクターの多様性が受け入れられ皆が好き勝手生きている世界観・暖色やビビットな色でまとめられた色調…子どもたちが皆押しなべてアンパンマンフリークである、そのからくりが少しわかった気がする。

 絵本も、大人になって改めて見ると、予想を裏切られる展開が面白く、師の映画好き・漫画からの影響の蓄積を感じた。

 

 と、大人になった僕が出来るのは、その構成要素について拙い分析をするぐらいであった。

 

 アンパンマンのヘビーユーザーである子どもたち(ブックオフのヘビーユーザーは清水國明)にとっては、そんな分析は関係なく「ただただ好きだから!」が魅了されている理由だろう。

そして、そんな子どもたちにとって最強の「ただただ好き!」を作ったやなせたかし先生は、本を見る限り、人生の端々で、いつも色んな物に感動しながら生きておられるようだった。

 

 日々の、積もり積もった莫大な感動こそが、子供という”世界一率直な批評家”に届く「ただただ好き!」を作ったのだろう。

僕の拙い分析も、後から来たもので、アンパンマンミュージアムでグッズや作品を目にした時は、ただただ「かわいいよなあ」「良いよなあ」という感想が第一に訪れた。

自分も、やなせたかし先生の”生涯感動”の姿勢に倣って、今年も毎日のようになにかに感動し、笑ったり、泣いたりしながら過ごしていけたらと思った。

 

そして、一生のうち1個ぐらい、誰かにとって「ただただ好き!」な物が作れたら嬉しいと思う。

 

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アンパンマンをかぶっているばいきんまんと、ばいきんまんをかぶっているアンパンマン。何となく「和解」感が漂う。かなり可愛いと思う。

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ジャムおじさんパン工場でパンを買った。マイナーキャラ二人だけどめちゃくちゃ美味しかった。子供向けにパン生地が甘くなっているけど、しょっぱいパンの風味も邪魔していなかった。

 

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▼他にも種類がたくさんあって、キャラクターにちなんだ味になってる。こむすびまんの「おはぎ入りパン」は、地方のサービスエリアとかで売ってそうだなと思った。

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アンパンマンの顔が書いてあるたまごボーロたまごボーロといえば赤ちゃん御用達のお菓子。それとアンパンマンの組み合わせは最強だろう。

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099 メタモンが好き

『弟・ユウジロウについて』

 

1.

 僕には10歳下の弟が居る。

 

 弟と僕は何もかもが正反対で、顔もそんなに似ていないので、兄弟だと紹介されないと、誰も血縁があるように見えないと思う。(仲はそれなり)

 

 僕はどちらかというと思弁的で理屈っぽく、超文化系である。

 弟は、思弁のかけらもない明瞭な若者で、高校時代もテニスに打ち込むなど体育会系な人間だ。

このように、考え方や生き方から全く違っている。それでも話せばそれなりに盛り上がるから不思議だ。

 

2.

 僕は、めちゃくちゃ感動しいで、ベタに感動のにおいがする作品を見るとボロボロ泣いてしまう。

一方弟は、そもそも映画などを見ないし、実体験でも感動して泣いた、そもそも泣かずとも感動したという話をひとつも聞いたことがない。

 

 今からする話は自分でもどうなの?と思うのだが、8年ぐらい前、当時12歳の弟と一緒に、居間で『春だ!まつりだ!ドラえもんSP』を見ていたときのことだ。

 

 その回では

「未来から来た悪の心を持つロボが、ドラえもんの身体を乗っ取って野比家に居候。

街ではドラえもんの身体を借りて悪事をやりたい放題。

 

最終的に、入れ替わりで悪のロボの身体になってしまったドラえもんの必死の訴えがあり、中身が入れ替わったことに気づくのび太

ドラえもんを信じて、タイムパトロールに、ドラえもんの身体(の悪のロボ)を差し出す」というあらすじの話をやっていた。

 

 当時21歳の僕は、久々のドラえもんの懐かしさもあり、食い入るように見ていた。

SP回だけあって、設定もしっかりしていて、心を掴まれた。

 

 最後、悪のロボが捕まる時に、野比家に居候中の温かい食卓の風景などを回想しながら、

「捕まっちまったけどよぉ……俺にも、あんなふうに優しくしてくれる家族が居ればなと思ったぜ…お前が、羨ましいよ…」

みたいなセリフを言った途端、感情が溢れて、僕は「ビエー!!!」と声をあげるぐらい泣いてしまった。感動しぃの本領発揮だった。

 

 (…弟も同じぐらい感動しているだろうな)と思って涙を拭き、弟の方を見ると、彼は無感情でアホ面を下げているだけだった。

 

それだけならまだしも、あまつさえ終わった途端にDSを取り出してポケモンを始めるではないか。

 

「いや~今のいい話だったよな~」と一応同意を求めると、彼の返答は「今ポケモンやってるから」というものだった。感情ないんか!?ロボトミー手術の後か!?!?と思った次第だ。

 

 こっちが感動しすぎなのもあるが、「12歳だし仕方ないか…」とも思った。

しかし、それから数年たった今も、映画で泣いたとか、実体験でも何かに感動したという話は聞いたことがないので、きっとそういう体質なんだろう。正反対だな~といつも思う。

 

3.

 僕は中学生の頃、どちらかというとマセたい方で、やたら友達と恋バナをしたがったり、背伸びして色々やってみようとする方だった。

現代であれば、中二病と片付けられてしまうような恥ずかしいことも沢山したが、そうやって背伸びしてやっていたことが今に生きていたり、単純にエピソードとして話せたりするので良かったと思っている。

 

 弟が15歳の頃、僕は実家に帰省した。

弟はマセる様子がゼロで、12歳のときと変わらず、ソファーに深く座ってDSをするばかりだった。

変わったことと言えば、声変わりの済んだ低い声で、夜中にyoutuberの動画を見て「アアアアア…アア!!」という特殊な笑い声を吹き抜けから家じゅうに響かせるぐらいだった。

 

 別にそれはそれでいいのだが、僕からは15歳にしては随分子供に見えたので、別に否定する意味合いではなく、夕飯のときに

 

 「ユウジロウさあ、今年15歳でしょ」

弟「そうだよ」

 「失礼だけど、自分の15歳の時に比べて、子供っぽく見えるわ」と率直に思ったことを言ってみた。

 

するとユウジロウは、「いや、そんなことないって!!俺はもう大人だよ!?」と強い語調で反論してきた。やっぱり15歳なりに、子供っぽく見られるのは嫌なのだろう。

 

そして、続けて

「だってもうピーマンも人参も食べれるよ!?!?」と言った。

 

その”大人”の基準が随分子供子供してるよ!!!!とツッコまずに居られなかった。

その後、好きな食べ物を聞くと「ハンバーグとカレーとスパゲティ」と、もはや昭和の子供ばりのお子様御用達メニューが脳内の食卓に並んだ。

 

 やっぱり爆裂に子供だった。

けれど、15歳にもなって、好きな食べ物にまっすぐこの3つを挙げられるスれてなさこそが弟の良い所で、この通りまっすぐに優しい好人物であり、赤ちゃんの頃から家族に癒やしをもたらしてきたのは言うまでもない。

大きな感動はしない彼だが、その分フラットな気持ちで、人に親切に出来るのかもしれない。

 

4.

 僕の好きなポケモンは「メタモン」である。

 弟がポケモンをやりこんでいる時に、好きなポケモンについて聞くと「イーブイ」と答えていた。

色々話していくと、僕も弟も、メタモンイーブイが好きな理由は「何にでも成れるから」だった。

正反対の僕たちだが、好きなポケモンの理由だけは共通している。何にでも成れる自由さにあこがれる所は一緒だった。

 

 そんな弟は昨日19歳の誕生日を迎えたらしい。

 

 彼は一流の料理人になるため、今は大阪の調理学校で修行をしている。

いつか、彼の作るハンバーグとカレーとスパゲティ、そしてピーマン料理に舌鼓を打ちたいものだ。

とにかくおめでとう。このブログも見ていないし、LINEも送ってないから気づくわけないけど。

彼のまっすぐな優しさが料理に反映されて、色んな人に笑顔をもたらしてくれる未来を楽しみにしている。

098 「安易な"変態"という言葉を凌駕する想像力」が好き <下>

(↓前回、前々回からの続きです)

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『ネオ・変態論』 -3-

 

5.

 改めて性癖の話に戻る。

 

 まず、日常の会話で、ただ単に順方向のエロに興味がある人・あるいは性欲が強い人に対して「変態だね~」という人がいるが、それは変態ではないと思う。

ただただノーマルに順方向にエロに興味があって、性欲が強かったりするだけだから「普通の人より順方向にエロに興味があるよね~」というのが正解だろう。

 

 あるAV男優さんが、変態性癖のある人に潜入取材した連載コラムがあり、それをたまに読んでいるのだが、登場する人たちの性癖は、ここでは例すら書けないぐらい飛び抜けたものばかりだ。

見ていて具合が悪くなる回もある。具合が悪くなっているということは、僕も変態ではなく、現段階でただただ順方向にエロいだけだ。

そのすべてが本当に予想もつかない方法でひらめいており、なんのてらいも無く行動に移されている。目的はただただ、自らの芽生えてしまった特殊な性への探究心・あるいはパートナーの満足のためだ。

 

 そして、自らの性的欲求を満たそうとする過程で、合意のない見ず知らずの他人に危害を加えたり、肉体的に危険に晒す、のは変態ではなくただの犯罪者である。

 

 例えば、Sの人がムチでMの人を叩く、というオーソドックスなSM行為にしても「いじめてほしいというMの人の願望があり、それを満たすためにムチで叩く」という、(合意の上の)奉仕の心から生まれている。

 あえて突然予想外にサディスティックな行為を加えたり、あえて行為をしないのも、「突然そういう裏切りをして、緩急をつけたらもっと喜ぶだろうな」という奉仕の気持ちが二重で働いているのではないだろうか。

 

 こう考えるとどっちがSでどっちがMなのかわかったもんじゃない。MのほうがSでSのほうがMなのではないか。

SMクラブでは、要求通りいじめてくれないと劣化の如くキレてクレームを入れるMの客もいるらしい。それに平謝りするS。考え始めると頭がクラクラする。

 

 件の連載を拝見する限り、変態の方の多くは、ただでさえアブノーマルで理解者の少ない世界ということもあるのか、たがいにいたわりあい需要と供給を明らかにして、性的欲求を満たしているように見える。

 自分と相手の特殊な性癖を、相互に理解し、相手が喜ぶ・あるいは互いの気持ちが盛り上がる→プレイが盛り上がる、ということを”想像”しあっている点で、変態の方はクリエイティビティが高い。

加えて、性癖の外にいる人には危害を加えないジェントルを持っている。そういった、とんでもないバランスの元に性癖が成り立っているのだ。

こういった方々にこそ、「変態」という言葉は使うべきだろう。(あえて”べき”と言わせてもらう)

 

 さあ、ここで改めてあのコールセンターに電話をかけてきた男に立ち返ると、あんなやつは変態の風上にも置けないし、変態という言葉はもったいなさすぎる、そう称するには100000万年早い存在であるということがおわかり頂けるだろう。

 見ず知らずの人の仕事中に電話をかけてきて、業務を妨害するのみならず、変態行為をしてやろうとして選んだ言葉が”何色のパンツ履いてるの?”とは失笑ものである。失笑すらもったいない。

迷惑な上に想像力がなくつまらないという、最低の男である。

たぶん普通に趣味の話とかしてもつまらない。自称・変態界から足を洗って、鹿の生態から勉強をしてほしいところである。

 

6.

 ここまで何故”何色のパンツ履いてるの?”という発言がムカつくのか、ということを題材に、変態という言葉について拙いながらも論じてきた。

 

 要するに、性的な意味での本物の変態は、概ね相互理解とジェントルと共にあると思っている。

 

 そして性的な局面以外では、安易に”変態”という言葉を使わず、

 形骸化した枕詞的な”変態”という言葉を裏切る、レッテル張りから自由な発想が、想像力を生み、クリエイティビティで楽しい空間を生むのではないか、と僕は思っている。

 

 僕の周りの友達は、クリエイティブに生きようとしているかどうかはわからないが、予想もつかないバランスで自由な発言をして僕を笑わせて驚かせてくれる人ばかりである。

逆に言えば、”変態”と思われようとする、不自然なてらいが不自由を生み、その人の本来の良さ、”変態”という言葉を凌駕する想像力・発想を奪ってしまうようにも思う。

 

 どうでもいいのだが、もしも自分が犯罪で逮捕されたら「容疑者は過去にこんなことも…」ってこの文章がニュースで取り上げられそうだなあ。

それも、中身もろくに見ようとしないでのレッテル張りだぞ!!!!!!だからこの手錠を外してくれ!!!!!!!!!!!!!離せ!!!!!!!!!!!!!!!!!!頼む!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

<完>

097 「安易な"変態"という言葉を凌駕する想像力」が好き <中>

(↓前回からの続きです)

yanakyo.hatenablog.com

『ネオ・変態論』 -2-

 

3.

 『変態といえば”何色のパンツ履いてるの?”っしょー!!!』という短絡的な発言は、普段から「〇〇といえば△△」というレッテル張りだけで物事を考えていることから生じた結果であろう。

 

 このような発言は”たかが一つの発言”ではなく、最終的に色々なことをレッテル張りでしか考えられない思考の入り口になる。

そのレッテルの外側のことを一切考えようとしない乏しい想像力を、直線の定規のように無理矢理世の中の事象にあてがうことが習慣となってしまうのではないだろうか。

 

 レッテル張りの習慣を持っている人間から、

「ある程度の年齢になればみんな結婚している≒だからその年なら結婚する”べき”」とか、「大人になったら普通〇〇をする(あるいは〇〇をしない)≒だから〇〇をする(やめる)べき」という、”べき論の押し付け”をされたことが一度や二度ではない。

 

 「〇〇といえば△△」というレッテル張りや、”べき”からなるべく自由になって、柔軟な人間になるためには”何色のパンツ履いてるの?”だけではなく、普段の言い回しから気をつけていく必要があると思う。

 

 例えば、安易に慣用句・使い古された言い回しを言い過ぎるのもどうか、と考える。

2019年にもなって、いまだに人のことを貶して罵倒語のピークのように、捨て台詞で「まったく、親の顔が見てみたいよ!!!」と言う人がいる。

 言われた奴が本当に親の写メを見せて「これです。」と言ったり、後ろにあるカーテンが開いて「この度はすいませんね~〇〇の母です~」「父です。」と登場したらどう思うのか。

 

 言った側は「親の顔が見たい」と大声で願望を叫んで、その願望がたった今目の前で叶ったはずなのに「あっ、どうも…いや~いつもお世話になっています…すいませんね、大声出しちゃって~」と及び腰になることだろう。

もし、そうならなくても「これがお前の親の顔か!!!!!!OK!!!!!!納得行った!!!!!!!!!!」ともならないだろう。

 

 目の前に登場した親に、「親御さん、だいたいあなたの育て方がね~!!!」とハナから説教する予定ならば、捨て台詞の段階で「まったく、親の顔を見て説教してやりたいよ!!!育て方について!!!!!!たまひよ買ったのか!?!?!?ちゃんと!!!!!!!!!!!!!!!」と言う必要があるだろう。

思ってもいないことを、”慣用句だから”と安易に口にするのも、「こうやって言っときゃ、そう思ってるっぽくなるからOK」という想像力の墓場への片道切符なのではないか。(言霊を舐めるなよ)

 

 近年、リアルでネットスラングを言い合って、笑い合っている人たちをよく見かける。

 そこまでならいいのだが、誰にでもネットスラングの言い回しをそのまま押し出して「自分はユーモラスな人間です」面をしてくる人との接し方にはすごく困る。

こういえばこう返す、というお決まりのくだり、みたいのが楽しいのは理解できるし、その範囲でキャッキャしてるのは全然良いと思うし、自分たちの日常会話から偶然生まれたお決まりのくだりを何回もやってしまう、みたいのは楽しくて自分も経験がある。

 

 しかし、自分で考えてもいない・誰かが作ったネットスラングのユーモラスな言い回しを、そのまま自分のユーモアの甲冑のようにまとって『ユーモラス軍』という旗を立てて合戦に赴くほどのみちみちた自信で、

「私って面白いですよね~だってこんなユーモラスな言い回しをしているのですから」というポーズは、回り回って、”想像力が死んでいますアピール”をしているのと同じではないか。

 

 あなたが面白いのではなく、そのスラングを考えた人が面白いのではないか。更にそのスラング自体すら面白く感じられないときは、二重の意味で地獄のような時間が訪れる。

想像力が乏しい人にこういうことを説明する労力も惜しみたいし、説明してもわからないだろうから、事故のようにこういう人にあったときは、インスタント瞑想を始めて、心を集中してなるべく黙っているようにしている。

 

4.

 ここまで、冒頭の先輩の言い回しを借りて、今回登場した「何色のパンツ履いてんの?」男を便宜上”変態”と称してきた。

 この”変態”という言葉、その使われ方にも近年疑問に思うことがよくある。

 

 例えば、過激なパフォーマンスをしているバンドなどをさして「変態だね~」という人がいる。

ここで言われている「過激なパフォーマンス」とは、(実際に僕が見たところでは)上裸で絶叫する・ステージから客席に食物を投げつける・物を壊す・放送禁止用語をそのまんまステージ上で言う、などである。それを指して「変態だね~」などと称している人を何度も見たことがある。

 

 この行為のすべてが、自分には”過激とされていること”としか映らなかった。予想の範疇にあり、恐らくパフォーマンスをしている側にすら、変態”とされている”行為をしているという、何か箱庭的な満足感が透けて見えているだろうことを感じてしまったし、見ているほうもそれを記号的に「変態だね~」という安易な類型に当てはめ合って満足している。それを自分は楽しめない。同志は何人か居たが、大多数がそれによって悦に入っていることに気づき、疎外感を感じてからは、そういう場所には出入りしなくなった。

 音楽だけじゃなくって、お笑いや映画などでも“誰にでも予想のつく過激性”や”変態とされている行為”を作品や思想の核にしてきて、得意げになっているのはあまり好きではない。

“誰にでも予想のつく過激性”を演じている時点で、全く変態ではないし面白みにかけるといつも感じていた。

 

 以前、現代音楽で、”演奏”として「公園をランニングしている動画」をアップロードしている人たちの話を聞いたことがある。

 現代音楽がその他の音楽より優れているというわけではないし、このパフォーマンスを自分が好きかどうか、は度外視して、少なからず”過激とされていること”をして悦に入っているよりは、創造的な行為なのではないかと思った。

 そして「変態」という言葉で普段、“誰にでも予想のつく過激性”を支持している人たちの大部分は、こういったパフォーマンスを見てただただ「意味わかんない」とだけ言うだろう。

もし彼らが、そのパフォーマンスを、好きだとしても嫌いだとしても、あるいはどちらでもないフラットな気持ちだとしても、いずれの理由も自分のフィルターを通しての言葉にして表現できないのではないだろうか。

 

 “安全な過激性”から離れたものは、たぶん「変態」だけではくくれなくて、もう少し微細な種々の成分や、思考や体験のバックグラウンドが含まれているから別の言葉で形容される。

そして、もともと想像力のない人には形容すら破棄されてしまう。安易に”変態”と形容されるよりはずっといい。

 

 こう考えると、創作物に対しての”変態”という言葉自体が、何か「普通とされているものから、どうやら逸れているらしいもの」を想像力の乏しい人が、便宜上・レッテル張りですべて”変態”という類型に当てはめるため(あるいは形容できない想像力のなさの露呈を避け自らの保身をするため)の、便利な救命胴衣のように感じてしまう。

だから、あまり安易に何でも”変態”と称したくない。想像力が死に、発展的ではないこういった場が、”変態”というワードで繋がれているのを、何度か目の当たりにしたからだ。

 

 まさに、“誰にでも予想のつく過激性”に陥って”何色のパンツ履いてるの?”などと言い「自分は変態だ」と悦に入っているのは凡人に他ならない。

 

(続きます)