097 「安易な"変態"という言葉を凌駕する想像力」が好き <中>

(↓前回からの続きです)

yanakyo.hatenablog.com

『ネオ・変態論』 -2-

 

3.

 『変態といえば”何色のパンツ履いてるの?”っしょー!!!』という短絡的な発言は、普段から「〇〇といえば△△」というレッテル張りだけで物事を考えていることから生じた結果であろう。

 

 このような発言は”たかが一つの発言”ではなく、最終的に色々なことをレッテル張りでしか考えられない思考の入り口になる。

そのレッテルの外側のことを一切考えようとしない乏しい想像力を、直線の定規のように無理矢理世の中の事象にあてがうことが習慣となってしまうのではないだろうか。

 

 レッテル張りの習慣を持っている人間から、

「ある程度の年齢になればみんな結婚している≒だからその年なら結婚する”べき”」とか、「大人になったら普通〇〇をする(あるいは〇〇をしない)≒だから〇〇をする(やめる)べき」という、”べき論の押し付け”をされたことが一度や二度ではない。

 

 「〇〇といえば△△」というレッテル張りや、”べき”からなるべく自由になって、柔軟な人間になるためには”何色のパンツ履いてるの?”だけではなく、普段の言い回しから気をつけていく必要があると思う。

 

 例えば、安易に慣用句・使い古された言い回しを言い過ぎるのもどうか、と考える。

2019年にもなって、いまだに人のことを貶して罵倒語のピークのように、捨て台詞で「まったく、親の顔が見てみたいよ!!!」と言う人がいる。

 言われた奴が本当に親の写メを見せて「これです。」と言ったり、後ろにあるカーテンが開いて「この度はすいませんね~〇〇の母です~」「父です。」と登場したらどう思うのか。

 

 言った側は「親の顔が見たい」と大声で願望を叫んで、その願望がたった今目の前で叶ったはずなのに「あっ、どうも…いや~いつもお世話になっています…すいませんね、大声出しちゃって~」と及び腰になることだろう。

もし、そうならなくても「これがお前の親の顔か!!!!!!OK!!!!!!納得行った!!!!!!!!!!」ともならないだろう。

 

 目の前に登場した親に、「親御さん、だいたいあなたの育て方がね~!!!」とハナから説教する予定ならば、捨て台詞の段階で「まったく、親の顔を見て説教してやりたいよ!!!育て方について!!!!!!たまひよ買ったのか!?!?!?ちゃんと!!!!!!!!!!!!!!!」と言う必要があるだろう。

思ってもいないことを、”慣用句だから”と安易に口にするのも、「こうやって言っときゃ、そう思ってるっぽくなるからOK」という想像力の墓場への片道切符なのではないか。(言霊を舐めるなよ)

 

 近年、リアルでネットスラングを言い合って、笑い合っている人たちをよく見かける。

 そこまでならいいのだが、誰にでもネットスラングの言い回しをそのまま押し出して「自分はユーモラスな人間です」面をしてくる人との接し方にはすごく困る。

こういえばこう返す、というお決まりのくだり、みたいのが楽しいのは理解できるし、その範囲でキャッキャしてるのは全然良いと思うし、自分たちの日常会話から偶然生まれたお決まりのくだりを何回もやってしまう、みたいのは楽しくて自分も経験がある。

 

 しかし、自分で考えてもいない・誰かが作ったネットスラングのユーモラスな言い回しを、そのまま自分のユーモアの甲冑のようにまとって『ユーモラス軍』という旗を立てて合戦に赴くほどのみちみちた自信で、

「私って面白いですよね~だってこんなユーモラスな言い回しをしているのですから」というポーズは、回り回って、”想像力が死んでいますアピール”をしているのと同じではないか。

 

 あなたが面白いのではなく、そのスラングを考えた人が面白いのではないか。更にそのスラング自体すら面白く感じられないときは、二重の意味で地獄のような時間が訪れる。

想像力が乏しい人にこういうことを説明する労力も惜しみたいし、説明してもわからないだろうから、事故のようにこういう人にあったときは、インスタント瞑想を始めて、心を集中してなるべく黙っているようにしている。

 

4.

 ここまで、冒頭の先輩の言い回しを借りて、今回登場した「何色のパンツ履いてんの?」男を便宜上”変態”と称してきた。

 この”変態”という言葉、その使われ方にも近年疑問に思うことがよくある。

 

 例えば、過激なパフォーマンスをしているバンドなどをさして「変態だね~」という人がいる。

ここで言われている「過激なパフォーマンス」とは、(実際に僕が見たところでは)上裸で絶叫する・ステージから客席に食物を投げつける・物を壊す・放送禁止用語をそのまんまステージ上で言う、などである。それを指して「変態だね~」などと称している人を何度も見たことがある。

 

 この行為のすべてが、自分には”過激とされていること”としか映らなかった。予想の範疇にあり、恐らくパフォーマンスをしている側にすら、変態”とされている”行為をしているという、何か箱庭的な満足感が透けて見えているだろうことを感じてしまったし、見ているほうもそれを記号的に「変態だね~」という安易な類型に当てはめ合って満足している。それを自分は楽しめない。同志は何人か居たが、大多数がそれによって悦に入っていることに気づき、疎外感を感じてからは、そういう場所には出入りしなくなった。

 音楽だけじゃなくって、お笑いや映画などでも“誰にでも予想のつく過激性”や”変態とされている行為”を作品や思想の核にしてきて、得意げになっているのはあまり好きではない。

“誰にでも予想のつく過激性”を演じている時点で、全く変態ではないし面白みにかけるといつも感じていた。

 

 以前、現代音楽で、”演奏”として「公園をランニングしている動画」をアップロードしている人たちの話を聞いたことがある。

 現代音楽がその他の音楽より優れているというわけではないし、このパフォーマンスを自分が好きかどうか、は度外視して、少なからず”過激とされていること”をして悦に入っているよりは、創造的な行為なのではないかと思った。

 そして「変態」という言葉で普段、“誰にでも予想のつく過激性”を支持している人たちの大部分は、こういったパフォーマンスを見てただただ「意味わかんない」とだけ言うだろう。

もし彼らが、そのパフォーマンスを、好きだとしても嫌いだとしても、あるいはどちらでもないフラットな気持ちだとしても、いずれの理由も自分のフィルターを通しての言葉にして表現できないのではないだろうか。

 

 “安全な過激性”から離れたものは、たぶん「変態」だけではくくれなくて、もう少し微細な種々の成分や、思考や体験のバックグラウンドが含まれているから別の言葉で形容される。

そして、もともと想像力のない人には形容すら破棄されてしまう。安易に”変態”と形容されるよりはずっといい。

 

 こう考えると、創作物に対しての”変態”という言葉自体が、何か「普通とされているものから、どうやら逸れているらしいもの」を想像力の乏しい人が、便宜上・レッテル張りですべて”変態”という類型に当てはめるため(あるいは形容できない想像力のなさの露呈を避け自らの保身をするため)の、便利な救命胴衣のように感じてしまう。

だから、あまり安易に何でも”変態”と称したくない。想像力が死に、発展的ではないこういった場が、”変態”というワードで繋がれているのを、何度か目の当たりにしたからだ。

 

 まさに、“誰にでも予想のつく過激性”に陥って”何色のパンツ履いてるの?”などと言い「自分は変態だ」と悦に入っているのは凡人に他ならない。

 

(続きます)