055 習い事が好き <承>
(↓前回からの続きです)
『ジャンギーの思い出』 -2-
4.
そんな時々ある"検定もの"は、ジャンギーが話を持ってきて、ジャンギーの奥さん(日本人)が作ったプリントを生徒各自が親に見せ、相談の上それぞれ受けるかどうかを決める流れだった。
小学4年生の偶数週のある日、ジャンギーがまた検定の話をみんなに持ってきた。
今まで受けていた児童英検は、比較的簡単なものだったので「チャント、勉強スレバダイジョーブ!!」みたいなジャンギーらしい陽気なイントロデュースで、いつも頼りになるなーと思っていた。
しかし、その日のジャンギーは様子が違った。
「…今回のテスト、今までとチョットチガウんだね…大学関わってる、本当に難しいヤツだよーミンナダイジョーブかな?…無理にイワナイ…お父さんお母さんにプリント見セてネ」
ジャンギーは”外国人としてはめちゃくちゃ流暢に日本語喋れてるけどやっぱりちょっと外国訛りで片言”感のある日本語、そして深刻な面持ちでそう告げた。
あまりジャンギーの説明では伝わらなかったので、プリントの内容を親に見てもらった+奇数週に日本人の先生に説明してもらったところ、
「今回の検定は、いつもの児童英検ではなく、ケンブリッジ大学が問題作成に関わっているので、難易度も合格基準も非常に高いテストである。受験料も比較して高く、ハードな勉強が必要になるので無理に受験してくださいとは言わないので、しっかり相談してください」ということだった。
5.
僕は相談したかどうか忘れたが、結局僕を含めた6人ぐらいのクラスメイトは全員受験をすることになった。
そこから、今までの”ジャンギー・ジラール英会話スクール”史上、もっともハードな3ヶ月間の授業が始まった。
日本人講師の授業はもちろん、今までの授業とは質が変わり、2段階ぐらいレベルが上がったような内容になんとか頭をついていかせて、ヒアリング(当時はリスニングって言うよりヒアリングっていう表現が主だった記憶がある)のテスト対策や、面接形式のテスト対策も実際に1対1で喋り、繰り返し行った。
いつもご陽気なジャンギーの授業も、その持ち前の明るさは、ZoffのPCメガネかってぐらいに70%ほどカットされ、ゲームの授業も1ヶ月に一回息抜きでやるぐらいになっていた。ちょっと残念だったが、テストのためには仕方ない、とみんな子どもなりに理解していた様子だった。
ジャンギーがさやかに勝ったときの勝利の歌もしばらくは聞くことがなかった。
これも、塾長なりの「勝利の歌ハ、その日マデお預けネ!!」という粋な心意気だったらアツいな、と今思った。
一度、当時流行っていたオースティン・パワーズの一作目のDVDをジャンギーが買ってカバンに入れていて、それを健人がカバンから勝手に出したときにちょっと怒った。こんなことばっかり覚えてるから、脳のHDD容量が無駄に増えていく。
三ヶ月の猛勉強の後、検定の日がやってきた。
いつも通っている隣町の町民会館から、更に15分かかる、隣の隣町の施設でテストは行われた。
単語書き取りのテストで1問目に「ツバメ」が出た。これは藤本先生と「スパローだからスパ王で覚えられるね!」と言い合ったやつだ!とすぐにピンときた。こんなこと本当に覚えてなくていいのに何故か忘れられない。
そのように色々とヤマが当たった。確かに難しい内容だったが、ヒアリング・面接含め、テストは無事終わった。
小学四年生にとっては、学校のテスト含めてここまで、本格的なテストの受験自体がはじめてだったこともあり、受かっているか、受かってないかは全く見当もつかなかった。結果発表までは3週間空くということを告げられた。ちょうどジャンギーの授業がある、偶数週に発表となる計算だった。
(続きます)