062 無駄記憶が好き

『Not 断捨離・無駄記憶』

 

1.

 初めて「死」が怖いと思ったのは小2のときだった。

実家から300kmぐらい離れた場所に、従姉の家があり、定期的に家族でそこに旅行に行っていた。

従姉の家族は両親と、姉妹2人という構成で、歳が近いということもあり幼い頃はよく遊んでもらっていた。

 

 その時も、久々の遠出+歳の近い歳上の友達二人と遊べる、ということでワクワクしていた。

ド田舎でJRの駅もなかった我が町にはない、宅配ピザなるものも初めて食べられるということで、食い意地マンションが建設中だった僕は二重にワクワクしていた。(ルイージマンションとのダジャレです。)

 

 そのさなか、少し大きな地震が来た。縦揺れで、食器棚のコップなどがいくつか床に落ちて割れた。

当時小さかった自分は「隠れて!」と言われるがままにテーブルの下に隠れて恐怖におののいていた。

「コップが割れたぐらいで良かったよねえ」と語る大人たち。自分はあまり経験したことない地震のショックからしばらく立ち直れなかった。

そのうちに、大人たちは地震から連想して、話を展開させていき、先の震災(当時の阪神大震災)の被害・死者が沢山出て他人事ではない、という話をし始めた。

大人たちにとっては、世間話の一環だったと思うが、その話の端々に登場するモチーフから、当時8歳だった僕は、強烈に「死」というもののイメージが体の中に立ち上がるのを感じていた。

 

 -(死んだらどうなってしまうのだろう、死んだら何もない。無だ。無になったら僕はどこに行くのだろう)-

という、人間誰もが感じたことのある「死」というものの存在を想起し、全身が戦慄に包まれて一瞬のうちに恐怖に立ち尽くす感覚が、8歳の僕にも襲ってきた。

この感覚と、引っ越す前の従姉の家のリビングの風景をはっきりと覚えている。特に小学校高学年ぐらいから無駄に思弁的で、良くも悪くも理屈っぽい大人になった自分の原体験がここにあるような気がしてならない。

 

2.

 そして、その数分後には恐怖もすっかり忘れて、当時『小学二年生』か何かの雑誌に掲載されていた、ストⅡの漫画で、チュンリーがパンチラをするシーンを見て興奮していたことも覚えている。

小さい頃、僕は”雑誌などのエロいページを見ると、ソファーの裏に隠れる”という癖があり、そのときもすぐにソファーの裏に隠れて、何度もそのページを読んだ。

 

 それを目撃されたおばさんに「暗いところで読んだら目悪くするよ」と言われたが、その前年に、親父が買ってきた『週刊ポスト』の巻末のグラビアやヌードページをソファーの裏で見ている僕を現行犯逮捕した経験を持つ母親は、すぐに察したようで「またスケベなページ見てるんでしょ!」とズケズケ言ってきた。

スケベなページを見ている子に「スケベなページ見てるんでしょ!」と、何の遠慮もなく言ってしまう母親のデリカシーのなさはメジャーリーガーだと今でも思う。お里が知れるわ!!!

 

 チュンリーによる興奮の波が引き、眠る頃にはまた「死」についての途方もない連想・恐怖が蘇り、眠れなくなっていた。

あまりに眠れないので、死んだらどうなるか怖くて眠れないことを従姉のみゆきちゃんに相談すると「そんなこと今考えても仕方ないよ。わからないし」と言われた。

それを聞くと、そうだな、しょうがないなとなり、割とすっと眠りについていた。

 

 大人になってから、仏教についての、にわか勉強をしたときに、お釈迦様が「死んだらどうなる?お前なら答えられるだろ?ブッダ!!」と問われ「わかんえもんはわかんねえ。そんなこと考えるより、今生きてる瞬間を良くする方法を探したほうがずっといいじゃねえか」(要旨)ということを言ったと読んだ。そしてその考え方は、”捨置記(しゃちき)”と呼ばれていることを知り感動した。

 このエピソードを久々に思い出したときに、案外あの瞬間にみゆきちゃんは悟りに近づいていたのではないか?と思った。

 

 翌朝は寝室にあったバカ殿の目覚ましの呼びかけで目を覚ましたことも覚えている。

普段は大好きな、志村けんの「アイーン!」「うれしいなあ!」などのギャグが、朝イチからハイテンションで繰り出されることにかなりイライラした。

しかも、目覚ましを止めるボタンを押すと「怒っちゃや~よ」というギャグが流れるアフターフォローまでカンペキだ。それも小賢しい。

 朝は、当時ポンキッキでやっていた『盆ダンス』の曲をテレビで聞いていた記憶まである。

 

3.

 このように、自分は無駄なことを覚えまくっている。

そして勉学の知識は、自慢じゃないがほとんどなく、語れるものは雑学やサブカルチャーと言われるものばかりだ。

こう考えると、新旧や古今東西を問わず、「無駄記憶・無駄知識にまみれまくっている」と言ったほうがより正確かも知れない。

喋ること、考えの理念も無駄記憶・無駄知識からの影響を受けている可能性が高い。

もはや無駄記憶自体が自らの核の一つであり、行動理念であり、無駄記憶の集合体が服を着て歩いていると言っても過言ではない。なんならもう服も着ないで歩いてやろうかと思うぐらい。それは願望や性癖であって、無駄記憶とは関係がない。どこで自棄になってんだ。

 

4.

 前述した「死」とも少し関係するが、ここまで無駄なことばかりを覚えていると、死ぬ間際の走馬灯で何を見るかが今から気になる。

小学二年生の時の「死を意識した瞬間」が、走馬灯のオープニング、あるいは終盤に登場したならば、映画的でドラマチックではあるが、そうではなく、もっともっと無駄なことばかり立ち上ったらどうしようと思う。

 

 小学生の頃、休み時間にバトエンのキャップを選手に見立ててやっていたサッカーゲームで、それぞれJリーグのチーム名を模倣した名前を付けていて、最強のチームの名前が『カツドンサドーレ札幌』だったこと…高校の同級生のレミオの、中学の時の後輩に「宝屋敷(たからやしき)」という珍しい苗字の人がいること…「Go to Thailand」というTシャツを来た中国人を札幌で見かけたこと…結局所在どこなんだよ。千葉に東京ドイツ村がある感じかよ。

 

 こんなことばかり出てきて、忌の際に「意味ねー!」と思うばかりだったらどうしよう。

走馬灯を見る理由として「死が間近に迫った身で、生存本能から、過去の経験をたどって、経験則から何とかこの状況を切り抜けて生き抜く術はないかと一瞬のうちに記憶を振り返るから」と聞いたことがある。『カツドンサドーレ札幌』からどんな生きる術を学べばいいのか。

そして、この考え自体が無駄なので、今こそ捨置記の考え方を使うべきである。

 

 このように無駄記憶を捨てられない、”逆・記憶の断捨離体質”は、子供の頃から続いているので恐らくこの先も無駄記憶・無駄知識にまみれながら暮らしていくことだろう。

今回もそれで一本エッセイが書けたわけだし、この体質を愛していくしかない。辛いことも覚えていがちなので、それを忘れて些末な記憶と面白い記憶だけ抱えて死ねたら、人より長めのファニーな走馬灯を見ていられるかもしれない。

 そんなわけで、僕は無駄記憶が好きである。